一度閉鎖したブログなのですが。。。アメフトの面白さに観戦記を記すことにしました。その日のノリで応援チームを決め、チアリーダーをデレデレ眺めながら一生懸命応援する変なオヤジのブログです。


by quesaisje00

ポパー礼賛

 単なるらくがきです.悪しからず.

 私とは,私なるものを措定するさいの仮の主語にすぎない.どこにでもあり,どこにもないそれを追い求めるポーズをとることで,無数の心理学者という肩書きの評論家が職を得ている.

 私はすべてのものについて,つまり,あなたや私自身を含めたいろいろなものについて評定することができる.それは行為である(つまり,評定すること自体は単なる行為に過ぎない).
 ところで,あなたは,他の誰かが,ある行為が存在可能という理由で,その行為の対象の存在を認めていたらどう思うだろうか.例えば,人魚についての絵を描くことが可能なのだから,人魚は存在するに違いない,というような議論である.どのような知性の人間でも,これについて疑問を呈し肯んじないべきだと私は信じる.また,あえて論じないが自明であろう.
 しかし,驚くほど多くの人文科学,社会科学の場ではこの誤りが行われている.まったく嘆かわしいことに,彼らの仕事のうちのかなりの部分が,もっと簡単な別の言葉で十分に代替可能な新語,新概念の創出に向けられるばかりではなく,より悪いことに,彼らは自分たちが作り出したまったく無意味で冗長な言い換えにより,何か新しいものが実体として社会に生まれでたかのように振る舞い,また非常にしばしば周りの研究者たちもそれを認めるのである.
 私が知る限り,自分の考えを極限まで単純化,明確化しようとする社会学者や心理学者はかなり稀な存在といえるだろう.引用文献の長さや自分の記述の長さを誇り,単に自分の主張をわかりにくくするためだけの長大な議論が研究としてむしろ評価される謝ったシステムが今なお存在している.シニカルにいえば,彼らはいかに情報理論的に考えて冗長性が高いかを誇っているようなものだと思う.時に私は,彼らの技術の大部分は,どれだけ中身をわかりにくくまた薄っぺらなものにし,それを長文で記述するかということに費やされているのではないかと感じることすらある.また,彼らの共通点は,自分たちのモデルを,例えば数学や図式などのようなごく単純なもので表現することに非常な抵抗を示すことで,まるで自分たちのモデルが複雑で理解しにくいことそれ自体に価値があるかのようにより簡単な説明や言い換え,数理表現を拒否する.彼らが自分自身主張するほど自分たちのモデルがすばらしいというのなら,なぜ彼らはだれもがわかるように自分たちの主張をまとめることに意欲を持たないのだろうか.
 (かくいう私の文章も相当にわかりにくいが)本題にもどると,

1 ある行為が成立することはその対象の存在や性質を証明しない.
2 1より,ある概念をしめすことはその存在や性質を明かさない.
3 しかし,2のような議論は人文・社会科学において非常にしばしば見られるように思われる.
4 冒頭の私の主張,『私なるものは主語に過ぎない』は,2を指摘するとともに,3の例として自己を追い求める研究ができることをさしている.
5 面倒で省いてしまったが,今が26時半で,明日私が早起きしなくてはいけないのではなかったら,4について,2の例外として,計量出来れば計量する対象があたかも存在するかのように振る舞ってよいと考える根本的に誤った態度の心理学者が多数いることを議論するつもりだった.

 以上のような文章を読めばわかる通り,私は人文・社会科学者の多くが持つ研究態度について大いに疑問を抱いている.故に,彼らと深いつきあいをする前に,いわゆる Occam's razor 基準について話し,これに同意する人間とのみ本音でつきあうことにしている.

注: 心理学は人文あるいは社会科学だとは私は考えていない.もちろんそのような側面もあるが,生理・神経的な基盤を持つ学際的な行動科学だと考えるのが妥当であろう.
[PR]
by quesaisje00 | 2007-05-09 02:44 | その他